2011/08/17

英国の暴動(3)

暴動に参加しているような子らとかかわっていたのは、日本人の友人であった。


深夜の時間帯はできるだけ避けたいエリアで、ナンパしてきた英国人男性。
渡英したばかりの友人は、ただひたすらに寂しかったから、
そのまま付き合うことになってしまった。
深夜帯、エリアを考えれば、相手の男性がどういう人なのかというのは、
想像できないはずがない。ついて行ってはいけないのだ。


とは言え、それは結果論であって、
一度は反対した私たちも、彼女の幸せそうな様子を見ては、
「良かったねえ」と頬をゆるめて歓迎したものである。
ただ、長引くにつれて、頭をひねるようなことが次々に起きた。


家具店、カフェでバイトをしていた32歳の彼は、
彼女との時間を優先するために、無断で仕事を休んでしまう。
バイトのダブルブッキングは日常茶飯事。
販売している家具を勝手に持って帰ってくる。
怪しんだ雇い主が彼の家に訪れたとき、大声で怒鳴りながら追い返している。
バイトの途中で「疲れたから」と言って勝手に帰宅してしまう。


はじめてバイトをする高校生でも、そのようなことはしないのではないか。
しかも、彼は32歳である。分別があるはずの大人である。


もしかしたら日本以上に学歴社会のイギリスにおいて、
小学校中退という学歴も気になる。
日本ならば小学校を出ていなくとも、努力次第で起業家として成功する道もある。
しかし、ここ英国では難しい。階級社会ということもあるが、
そのような事例はサッカー選手、タレントなど一芸に秀でた者しか思いつかない。
ビジネスに関する知識、スキルがあったとしても、銀行がお金を一銭も出さないなど、
その道は閉ざされているのではないかと思う。


あれこれ考えていた途端、彼はバイトを辞めた。
彼女の話では、すぐに仕事を見つけるとのことだったが、
わたしが知る限り、彼女が帰国するまでの2年間、
彼が仕事を得たり、仕事を得るための行動をしたことはない。


+++


仕事をやめた後の彼は、ただひたすらに怠惰であった。
働かなくても金が入る状態になれてしまえば、
あえて仕事を探す必要はないのだろう。


彼が仕事を辞める直前に、彼女は彼の家に移ってきた。
国から補助を受けている住宅は、日本のアパートのような外観。
室内は広く、庭がついていたりもする。とても快適だ。
その快適な家で、彼は酒におぼれ、時にはドラッグをやり、
夜はクラブのごとく大音量で音楽をかけて楽しむ。


あるとき、彼女を訪ねるため家に行ったことがある。
当時、学生だった私はバイトをして良い時間が
英国の法律で決められていたため、毎月の給料は8万円以下。
それでも何とかやりくりをして、飲みに行ったり、
旅行に行ったりもした。正直、生活は厳しかったが、
お金を多くもらっていた日本にいたときよりも充実していた。


そんな私に彼は悪びれる様子もなく、
「タバコと酒が欲しいんだよ。金くれよ」と言うのである。
働きもせず、ダラダラ暮らす目の前の男に、
国は補償金を渡している。しかも、それは私の税金だ。


またあるときは、日本の友人らと彼らの家にバーベキューをしに行ったことがある。
お肉、野菜、酒、お菓子を買い込み、昼から楽しんだ。
ふと気づくと、部屋には知らない大人や子どもが大勢つめかけていた。
腹をすかせた様子の子らは、私たちになんら断りもなく、
冷蔵庫を開け、酒を飲み、菓子をほおばり、肉や野菜を焼く。
肉は明らかに生のまま食べていた。
みんなで購入した食材は、瞬く間に彼らの胃袋に納まってしまったのだ。
友人のうち一人は、財布、携帯を盗まれている。
驚きなのは、彼の知り合いと思っていた子らは「まったく知らない」子だったのだ。


+++


彼女とは良き友人でいたいものの、裏にいる彼の存在が好きになれず、
わたしは彼らの家に招待されても、何らかの理由をつけて断っていた。


いつだか忘れたが、彼女と二人でパブで飲んでいたとき、
ふと目にした彼女の腕に大きなあざがあった。
いやな予感がしながら、恐る恐る聞いてみると
「彼が暴力をふるうようになった」と予想通りの回答。
金を彼女にせびるようになった彼は、彼女が断ると暴力を加えるようになったのである。
どこまでも最低な男だ。


過去、DVの男と付き合ったことがある私は、
改善はほぼゼロに等しいことを分かっているので、
別れを積極的に薦めてみたものの、彼女からは「No」の返事。
これも想定内である。自分で気付き、行動しなくては逃れられないのだから。
いささか不安ではあったものの、助けを求めてきたタイミングで
できる範囲のことをしようと心に誓い、一回り小さくなった彼女の背中を見送った。


そして、その1カ月後、忘れられない出来事が起きた。


+++


1年のうちで最も日照時間が短い月だった。


シャワーを浴びて部屋に戻ると、彼女から10数件もの着信履歴。
異常事態を察知した私は、すぐさま彼女に折り返しをすると、
泣いた直後のような嗚咽とカラカラに乾いた声の彼女が出た。



これから家を出たい。助けて。もう耐えられない。
あいつが戻ってくる間に家を出なくては殺される。



そんな内容だったように思う。
取るものも取りあえず、彼女の家に直行。
私の家から近いとは言え、バスで25分はかかる。
もどかしい想いを抱えながら、電話で常に彼女を励ましていた。


彼女を見た途端、短い悲鳴を上げてしまった。
左目は青紫に腫れ上がり、口は切れ、鼻の下には固まった血液がこびりついている。
体も相当殴られたのか、歩くたびに、痛そうにうめいていた。


ひょっとしたら私は、とんでもない所に来てしまったのではないか。


一瞬そんな考えが浮かんだものの、彼女の様子を見てしまったらそうも言ってられない。
護身用として持ってきたカッターナイフの在り処を確認しながら、
慎重に、されど素早く荷物をまとめる。
外で「カタッ」という音がするたびに、あまりの恐怖に全身が震え上がってしまった。
心臓の鼓動に合わせて、息が浅くなっていくことが分かる。
冷静になろうとすればするほど、気ばかりが急いてしまい、
最終的には二人で泣きながら荷物をまとめていた。


それでも私が到着して10分後には家を脱出することができた。
永遠に続くかのように思えた時間は、たったの10分だった。


彼女が夜逃げをしてからしばらくは、彼女にも私の携帯にも
彼からの電話やメールが頻繁に届いていた。
背筋がゾッとなるほどの内容もあった。
もしも何かあったときのために、それらのメールは常に友人に転送していた。
私の心配は現実にはならなかったが、今でも、あの日のことは夢に見る。


+++


これを読んだとしても、暴動に加わる若者とはリンクしないかもしれない。


ただ、わたしは見たのだ。
ニュース映像に彼、その友人が略奪に嬉々として加わっている様子を。


ちなみに彼の母親は彼を18歳のときに出産。
子どもの数は覚えていないらしい。現在、シングル。
当時の彼氏は24歳だ。
息子よりも8歳年下の彼氏。


彼女のもとに産まれたことが不幸なのか、
あるいは周囲に教育者がいなかったことが不幸なのか、
それとも、不幸と思ってしまう私自身がおかしいのか。


きらびやかな世界には、必ず闇はある。
知らないまま暮らせていけたら、それは幸せなことなのだろうか。

英国の暴動(2)

英国の暴動(1)では、あれこれうだうだと語ってしまった。

この暴動は、英国の社会保障制度が問題だ!と端的には言えない。
私の知りうる範囲での社会保障制度は以下である(詳細は個人で調べてください)

1)失業した場合、定職につくまで半ば永久的に失業保険がもらえる
2)体に何らかの障害を持ち、仕事を得ることが難しい場合は障害者保険がもらえる
3)シングルマザーで無職の場合、国からは住宅とさまざまな補助金が支給される
4)日本で言う年金は65歳から(最近、引き上げになった)

2)は病院から認定されればもらえる。その後のリサーチもないと思う。
ひどい腰痛のため仕事ができないからと障害者保険をもらっているのに、
子どもをたくさん作っている人を私は知っている。

3)があるからなのか分からないけど、10代半ばで子どもを出産している女の子は多い。
まだ中学生くらいのあどけない顔をした女の子が、
バギーを押しながら、携帯片手に下品な言葉をしゃべっていたりもする。
赤ちゃんが雨風にさらされようが知らんぷり。何ともいたたまれない。
「産めよ増やせよ」で20代半ばには、子どもを4~5人抱えている。
しかも、すべて父親の違う子ども、なんてこともザラだ。

ちなみに無職のシングルマザーで、子どもが5人もいれば、
高級住宅街のチェルシーに家を借りられる(買える?)という話を聞いたことがある。
ロンドンに限ったことなのかもしれないが、コンドームやピルなどは、
病院に行けば山ほどもらえる。山ほどっていう言い方が過剰表現でないことが分かるほど、
コンドームに関しては、袋いっぱいにもらえたりする。
無職のシングルマザーに対する補償を制限するためなのか、
はたまた、十分な教育を受けられず、ひょっとしたら闇に葬られている、
不幸な子どもたちを減らすための政策なのかは分からない。

それでも、不幸な子どもたちは増えている。


1)は言葉とおり。
住宅の家賃補助も出るうえに、海外旅行や高級ブランド品、
レストランなどのぜいたくを一切しなければ、じゅうぶん暮らしていくことが可能だ。
日本同様、英国も長年の不況に苦しんでいる。失業率も伸びる一方だ。
イギリス人でさえ就職が困難な時代に、この制度は大変ありがたいものだと思う。

銀行に勤務していた友人は、リーマンショック後に突然解雇されている。
次の職を探すまでの間は、失業保険の世話になっていたが、
そんな自分の状況を「居心地悪い」と言っていた。これがきっと通常の感覚なのだ。
だが、その感覚を持ち合わせない人も、残念ながらいる。大いにいる。
持たない者は「英国の暴動(1)」で書いたような存在かと思う。


こうして書いてみると、1)と3)に甘えすぎた人の子らが、
今回の暴動に加わっているとしか思えないのだ。
想像ではなく、今から約2年前にそのような子らと交流があったから言っている。
英国の暴動(3)では、そのことについて書こうと思う。

英国の暴動(1)

実は、英国に住んでいたりする。

日本でどのような報道をされているか分からないが、
ロンドン北部で一番最初に起きた暴動と、
その後の暴動とでは種類がまったく異なると思っている。

ロンドン北部で起きた暴動は、
黒人男性を撃った警官に対する親族、友人らの抗議だった。
男性が先に警官を撃ったのか、警官が先なのか?
そもそも、ロンドン市内の一般警察は、
銃を所持してはいけないことになっているのに、
なぜ、その警官は銃を所持していたのか? など、真相は闇の中。

暴動の起きたエリアでは、過去にも警官による一方的な暴行があったため、
今回もそれ同様なのでは・・・という見方もできなくはない。
エリア的にもイギリス人よりも、低所得者、移民の割合が多く、
階級社会、移民問題など、さまざまな問題をはらんでいるのだ。
それゆえ、最初の暴動は行き過ぎたものではあれど、
反警察、反人種差別を主張したものと捉えることができる。

しかし、それ以降の暴動に参加している若者はどうであろう。
ホリデイで暇を持て余していた彼らにとって、
リアルな場での略奪、破壊は面白くて仕方ない。
そう。言わば、ゲームを楽しんでいるように思うのだ。
反社会? 反政府? そんなことを考えている人が仮にいるのならば、
1割にも満たないのではないだろうか。


暴動に参加している若者たちは、
窃盗、破壊が罪だと思うことはないだろう。
それはなぜか。
半永久的にもらえる失業保険の恩恵にあずかりながら、
安物のドラッグと酒とセックスにおぼれた親たちが、
教育の代わりにジャンクフードを子に与える。
ここに原因の一つがあるように思う。

盗み、レイプ、殺しが罪になるってことは、
国(人間)が勝手に決めたルールであり、
動物たちの世界では罪ではない。
生きるためには盗みもするし、殺しもする。
子を産むためのメスがグループにいなければ、
レイプしてでも自分らの子を孕ませればいい。
それが「いけないこと」だという認識ができるのは、
親、友人、学校などの当人を取り巻く周囲から学び、
理解する過程が必要なのだ。

暴動に加わっている彼らの周囲には、それが無い、
もしくは極端に欠如しているのではないかと思っている。
10代中盤まで育ってしまった彼らに
罪の意識を与えるために、英国は何をすべきなのだろうか。

+++

自らの見聞きしてきたこと、調べたうえでの、自分なりの結論です。
暴動に加わっている若者すべての環境が、上記のような状況であるわけではなく、
中には面白がっている輩もいます。10代半ばなんて、
ちょっとした悪さをしてみたくなる時期なのだから。

2011/06/17

お父さん、ありがとう

誠に心苦しい話だが、日本国内の多くの娘たちは
父親のことが心の底から嫌いである。

ツイッター、ミクシー、自身のブログなどで、
娘へのあふれる愛をつづる友人を見ていると、
「わたし」は、涙を抑えることができない。
「近い将来、あなたは娘に嫌われることになるんだよ」
なんてことも言えないので(仮に言ったとしても信じてもらえるはずがない)、
いずれ彼らのもとに訪れるであろうⅩデーを、
せめて心安らかに迎えてくれれば・・・と祈るばかりである。


事実、「わたし」は「父親」のことが世界で一番嫌いだった。


「父親」は日本海に面した小さな漁師町に生まれた。
それゆえ、漁師になるということは、ほぼ、
・・・・いや強制的に決められた未来だった。
幼いころから海に親しみ、決められた通りに水産高校に進学。
祖父や周囲の思惑通りの人材に育つのかと思いきや・・・・

「父親」は高校卒業と同時に生まれ育った故郷を捨てた。
行き先は、高度経済成長期の恩恵を受け、欲望と活気がうずめく街、東京である。

ある意味閉鎖された空間から飛び出してきたのだ。
見るもの、聞くもの、体験することのすべてが若い「父親」には、
刺激的であったのではないかと思う。ずいぶんと多くの女性と遊んだとも聞いている。
時には堅気ではない方の女性にまで手を出し、
歌舞伎町で土下座をしたこともあるようだ。

危なげな日々を生きていた「父親」はやがて、
青森の短期大学で鬱屈した生活から一転、
あこがれだけを胸に飛び出してきた「母親」と出会い、
そして、間もなく一生をともにすることを決める。
「母親」の実家がある函館に結婚の旨を伝えに行ったときは、
真面目を絵に描いたような叔母、祖母は、「父親」のあまりの若さに、
古い言い方をすれば放蕩ぶりに卒倒したという。
パンチパーマに裾が大きく広がったパンタロン、
黄色いTシャツ、そしてにやけた口元は、なるほど「放蕩息子」にふさわしい。

しかしながら、周囲の期待を裏切り、「父親」は「わたし」の誕生とともに、
遊びとは決別し、人が変わったように仕事に打ち込み、
家庭を愛する良き「父親」になった。
20代前半で技術も学歴もない「父親」は、
自ら進んで危険地帯への出張を申し出、家族のために働いた。
「父親」が働く現場近くに、砲弾が飛んできたこともある。
ピースサインをしながらニッコリほほ笑む「父親」の背景には、
集中砲火を受け、黒煙をあげる街の姿があった。

国内でも現場にいる間は、常に危険と隣り合わせだ。
そのような緊迫した場で長時間働いているのだから、疲れていないはずはない。
しかし、「おとうさーん、たかいたかいしてー」とせがむ「わたし」を、
やおら持ち上げ、飽きるまで「たかいたかい」をしてくれるのだ。
なんという愛情だろう。

そのような愛情を受けておきながら、
父親にとって最も残酷なことを娘は実行するのだ。


それは、あまりに突然だった。あれは、反抗期のころだっただろうか。
今まで大好きだった「父親」は、得体の知れない生き物になる。
同じ空間にいるだけでイライラが止まらない。
目を合わせることも、しゃべることも、何もかもが嫌になる。

「わたし」の場合、友人たち以上にその病が深刻であった。
嫌う理由なんてどこにもないのに、とにかく嫌いで仕方がなかった。
何年もの間、「父親」との会話はもちろん、「父親」の存在自体が、
「わたし」の心から消し去られていた。


ある日、いつだったか正確には覚えていないが、それは雨の日だった。
仕事で大きな失敗をし、傷ついた心に、朝からの雨が重く降り注ぎ、
どこまでも、どこまでも深く沈んでいた。
電車の中に傘を置き忘れてしまったが、新たな傘を購入する気力もない。
雨脚が強まり、見慣れた街はどこか幻想的な様相を呈する。
それをぼんやり眺めていると、誰かが肩をたたく感触がした。
怪訝に思いながら、後ろを振り返ると、そこには仕事帰りの「父親」が立っていた。

「今、帰りか。今日は早いんだな」
何年ぶりかに聞く「父親」の声は、少し緊張していた。
「傘、もってないのか。風邪ひくから、タクシーで帰ろう」
昔の笑顔とは違う、あきらかな作り笑顔の「父親」を見たとき、
心の中で張り詰めていた何かが砕け散った。
うなずくとともに、涙がとめどなくあふれ出てきた。
それはもしかしたら「父親」と「わたし」の間に、
何年もの長い間、降り続けた雨が、涙として流れ出したのかもしれない。

その感情が何なのか今でも分からないが、
ひとしきり泣いた後で見た「父親」の顔には、
「わたし」が大好きだった笑顔が戻っていた。

あの日以来、「わたし」の「父親」に対する嫌悪感は急速に姿を潜めていった。
何年もの間、面と向かって会話をしたことがなかったので、
最初のころは、どことなくぎこちなさを感じていたことは事実だが、
それでもゆっくりと、確実に、「父親」が心の中に戻ってきたのだ。

今年も父の日が近づいてきた。
「わたし」は現在、日本国内にはいないが、
この日はとっておきの感謝のことばを届けようと思っている。
雨は完全にあがったのだ。



ここで訂正とお詫びをしなくてはならない。
「日本国内の多くの娘は、父親のことが心の底から嫌いである」に続き、
「しかし、何年かの後、多くの娘は、父親を再び愛するようになる」。
世の中の父親の皆さんは、どうか安心してほしい。
いずれ、娘と美味しいお酒を飲み、語れる日がきっと来る。

2011/06/10

6月9日

・・・・電話を切る前に・・・、15年前の今日のことを
少しだけ話してもいいかな? うん、すぐ終わるから。

・・・・その前に8日の夜のことから話したほうがいいかもしれないな。
電話で、うん、あのころは携帯電話なんて持ってなかったからね。
当時はまだポケベルだったんだよ。覚えてる?
大学の授業が終わったら、全速力で公衆電話に駆け込んでさ。
そうそう、最初に【※2※2】を押すの。めちゃくちゃ早いコ、いたよね(笑)。

あの日は子機を部屋に持ってって、ベッドに座りながら、
「彼」と話してたの。・・・うん、大切な「友だち」。
内容は忘れちゃったけど、はは、楽しく話してた。
じゃあ、明日ねって「約束」して電話を切ったの。

そしたら、その翌日。うん、9日ね。
「約束」の場所に「彼」がいつまでたっても現れなかったの。
ベル、・・・あ、ポケベルね。「彼」はポケベルなんて持ってなかったから、
その場から離れるわけにもいかなくてさあ。イライラしてたよ。
そしたら、友だちがフラフラしながら近づいてくるの。
目がうつろで、顔が蒼白で・・・ 不思議なんだけど、それでピンと来たの。
・・・「彼」ね、9日の朝にはもう亡くなってたんだって。

うーん、「私」自身、とても混乱してたから、当時の状況は正直あまり覚えていない。
でも、「彼」の最期のことば、うん、あなたがいつも電話を切るときに言うことば、
・・・そうそう、それ。それだけは今でも鮮明に覚えてるんだよね。
ははは、だぶったことはないよ(笑)。

たぶん、1年くらいは引きずってた気がする。
でも、じょじょにだけど「彼」のことが思い出になっていくんだよね。
それがつらかったんだよね、すっごく。え? うん。
なんて言うんだろう。思い出になった時点で、「彼」が過去の人になって、
この世から本当にいなくなってしまうような感じかな?
「私」が勝手に「彼」にとらわれていたんだろうなあ・・・・
さすがに今日で15年目だからね。もう、そういうことはないよ。
1年に1度、今日だけ少し「彼」のことを思い出す程度かな?


・・・・・何でこの話をしたかっていうとね。
今日、あの震災の日からずっと行方が分からなかった友人からね、
メールが届いたんだ。たった2行の短いメールだけど。
うん。すごくうれしくて。信じれらなかった。今でも信じられない。

それだけじゃなくて、友だちの子どもが無事に産まれたの。
そうそう、前に話してたコね。昨日の夜、陣痛が来て病院に行ってるから・・・
24時間くらいかかったのかな? ちょっとハラハラしてた、仕事そっちのけで。
え!? 仕事は毎日ちゃんとやってるよ~(笑)。息抜きも必要でしょ?
「私」、タバコやめたから、休憩のタイミングがなくなっちゃったんだもん。

うん。ちょっと難産だったのかもしれないけど、結果は母子ともに健康。
パパになった友だちから、赤ちゃんの写真が送られてきたの。
ちょっとブレてるんだけど、ママ似のかわいい子だった。
早く産まれてきちゃったから、ちょっと小さいのかなと思うんだけど、
それでも強さを感じる。無限の可能性にあふれてるっていうのかな。
その可能性を守ってあげなきゃね、大人の「私」たちが。


・・・単なる偶然なのかもしれないけど、偶然じゃないって思っちゃうよ。
15年前の6月9日に「彼」が突然いなくなって、
15年たった今日、約3カ月ぶりに友だちの所在が分かって、新たな命が誕生した。
こういうことってあるんだなあって思ったんだよね。

・・・・あ! 長くなっちゃったね。明日、早いんでしょ? 仕事。
はは(笑)。いつも通りに切っていいんだよ。
おやすみなさい。

またね。

2011/06/07

あの日、あのとき

「じゃあ、結婚しようか」

冷えたコーヒーをまずそうに飲み干した後、
おおよそ大切だと思われることを、
あたかも「飲みに行こうか」と誘いかけるような、
そんな日常にあふれたリズムで、非日常なリズムを奏でる。

「わたしたち」が、たとえば1年なり、2年なり、
・・・・いや、この際、期間は重要ではない。
ともかく恋人としてくちびるを重ね、体のぬくもりを感じ、そして愛を語り合う。
そんな時間をすごしていたとしよう。
さすれば、「彼」の言葉に「わたし」は歓喜したにちがいない。

ところが、「わたしたち」の出会いは、「彼」がこの言葉を発するおよそ1時間前。
西の空から吹く、なまあたたかく、湿り気を帯びた風が、
やがては気持ちを鬱々とさせるような雨をもたらしたとき、
いつもは真っすぐ会社に戻るところを、なんとはなしに寄ったありふれたカフェで、
なんとはなしに隣になった「彼」がいて、どちらともなく声をかけたことからはじまるのだ。

大衆ウケだけを狙った安い音楽が、今日はやけに耳に響く。
大人たちに洗脳という名の教育を受け、感情をそぎ落とされ、
まるで人形のような表情を浮かべ、うたうアイドル。
愛が何たるかも分かっていない子どもが「男女の愛」をテーマにしたうたを歌う。
しかも、この日、このときに。なんたる滑稽なスト―リーだろうか。

それでも、「わたし」は笑うではなく、明らかに困惑していた。
目の前の「彼」が何を考え、10歳も年下の「わたし」にそれを言ったのか。

「飲まないの? それ」
「わたし」を混乱に陥らせた「彼」の次の言葉は、あまりに日常すぎて、
つい先ほど聞いたあの言葉が、実は幻聴だったのではないかと思わせる。
「・・・ああ。うん。もう、いいかな」
氷が溶け、うすくなったコーヒーに用はない。
それよりもむしろ、この場をどう切り抜ければいいのか、そればかりを考えていた。

「じゃあ、もらうよ。こんな日にホットなんて頼むんじゃなかったよ」
ははと笑いながら、うすくなったコーヒーを飲む。
つられて「わたし」も、「はは」と笑う。
感情のないそれは、愛のうたを歌わされている彼女と同じだ。
そんな自分にゾッとしながらも、この場を抜けることができるのなら、
感情を売り渡したっていい、そんな馬鹿げたことを考えていた。

「オレ、本気なんだけど。伝わってない?」
急に真顔になり、まっすぐな目で見つめてくる。
この状況で、どうしたら「彼」の言うことを信じることができるのか。
多少いらだちながらも、一方で「私」は自分自身のことが分からないでいた。
目の前にいる「彼」の誘いが嫌ならば、すぐに断ればいい。
「結婚できません」それで終わりだ。しかし、それができない。

この気持ちに何と名をつければいいのだろうか。
突拍子もないことを言う「彼」に対する興味。
この「彼」と一緒にいたら何が起きるのだろうかという期待、そして不安。
それらの感情が混じり合った気持ち。これを何と呼ぶのだろうか。

「実は2カ月後にニューヨークに行くんだ。一緒についてきてほしい」
「彼」の言葉は、さらなる混乱を呼び、思考を停止させる。
遠方にかすんで見える高層ビルに直撃した光は、
身震いするほど美しく、心惑わせる怪しさをひめていた。

2011/05/31

「鈴木さん」のこと

見るもの、聞くものすべて覚えてしまう能力が消えたと同時に、
獣医師への道も閉ざされてしまった高校1年の春。

獣医になれないのであれば、大学に行く必要はない。
昔から短絡的な考え方しかできないわたしは、
進学をあっさりあきらめ、部活動とバイトに青春を費やすことに決めたのだ。

高校はわたしが住む地区でもナンバーワンの進学校だったため、
バイトをしている生徒は数少ない。
大学進学のため、高校2年から予備校に通う友人らを見て、
「親のすねかじりめ」と口には出さねど、心の中でひっそり思っていた。
それは、かつての天才ゆえの嫉妬なのかもしれない。
そのような醜い心にふたをするために、より一層バイトに励んだのだ。
コンビニエンスストアの早朝バイト、ファストフード、スーパーなどに勤務したが、
高校時代一番長続きしたバイトは、町の中にある小さな洋品店だった。

「洋品店」と言うと聞こえはいいかもしれないが、
Tシャツ100円、下着50円、セーター500円など、
とても利益がとれないような低価格の洋服を販売していた店だった。
週末のセールともなれば、ただでさえ安値の洋服が、
駄菓子屋の価格同様になってしまう。
開店と同時に店内に押しかけるおばちゃんたちの勢いを見たとき、
「ああ、このおばちゃんたちが日本を支えているんだ」と、
やけに納得していたものである。

わたしと一緒に働いていたバイト仲間は、
中学のころの友人2名と大学生の「鈴木さん」だった。
義務教育を終えたばかりのわたしにとって、
「鈴木さん」は、大人の女性そのものだった。

スラっとした足を組み、けだるそうにタバコを吸いながら、
まだキスもしたことがないわたしに、「鈴木さん」は男女のことを教えてくれた。
そのような話題に免疫がなかったため、「やめてくださいよー」と
顔を真っ赤にしながら、話を続けようとする「鈴木さん」を制止したものである。
「ははは。ごめんごめん。今に分かるから楽しみにしてなよ」
にっこり笑いながら、「でさあ、こないだの男は」となおも続けようとする。
「ぎゃー、もう終わりだって!」と、いよいよ怒り出すわたしを見て、
ふふふと含み笑いをしながら、話を終わらせるのだ。

当時のわたしにとって、「鈴木さん」はあこがれだった。
彼女のマネをしてタバコをドキドキしながら吸ってみたり、
真っ赤なマニキュアを爪に塗ったりもした。
「鈴木さん」と知り合いのわたしは、クラスメートよりも
はるかに大人になった気がしていた。

就職先が決まり、バイトを辞めることになった「鈴木さん」は、
最終日に「ちょっとちょっと。渡したいものがあるんだ」と声をかけてきた。
ぽかんとするわたしの手に、無理やり握らせたそれは、
いかにもいたずら好きな彼女らしさにあふれていた。



その後。
家に持ち帰るわけにもいかないので、ロッカーに入れておいたそれは、
昼食の時間帯にカバンを取る拍子に、床に落としてしまった。
でかでかとした「ハートマーク」が描かれた「コンドーム」は、
パートさん、中学時代の友人の目を瞬時に奪うことになる。

少しの静寂の後、好奇と嫉妬の嵐が吹き荒れる。


わたしは、その日、バイトをクビになった。

2011/05/30

その日は突然に

わたしと実際にあったことのある方なら、確実に、一瞬たりとも、
「こいつ頭いいな」と思うことは、まずない。皆無である。

もちろん、そのような評価を望んでいるわけではないし、
そのような人間になるべく、努力をしているわけでもない。
むしろ、「頭がいい」とは対極の位置にいることは明確なのだが、
かつて天才と言われていたわたしとしては、
いささか残念な状況ではある。


それはいつの時期か。
今からさかのぼること、約20年以上も前。大昔である。
記憶すらあいまいな大昔。されどわたしは、まぎれもなく天才だったのだ。

物ごころがついたときから、わたしは見るもの、聞くもの、
そのすべてを余すことなく記憶することができたのだ。
たとえば、テレビでドラマを見ているとしよう。
主題歌、登場人物すべてのセリフはもちろん、
物語を中断するCMのナレーション、テロップ。
すべてを一度に記憶してしまうのだ。これは大変なことである。

毎日を生きていると、さまざまな情報が洪水のように押し寄せてくる。
情報の取捨選択ができないため、幼いころの私は常に混乱していた。
その混乱がもととなり、家族以外の人の前では一切コトバを発することができない。
それゆえ、神奈川県西部に引っ越すまではひどくいじめられた記憶がある。

情報の山に埋もれたわたしは、それでも年齢を経るごとに、
無意識的に情報のふりわけをすることができるようになった。
たとえばそれは、テストのときに大いに役立った。

定期テストはもちろん、神奈川県下で行われる中学2年時のア・テスト、
そして高校受験。それらすべてのテストに向けて勉強したことは、一度もない。
授業のときに教科書を見て、教師の言うことを聞くだけで覚えてしまうのだから。
もしくは、テスト前に教科書をパラパラめくれば、すべて記憶してしまう。
テスト前にうんうんうなっているクラスメートを見て、
「どうしてこんな簡単なことも覚えられないのだろうか」と純粋に、不思議に思っていた。

テストは100点を取って当たり前。
ただ、それではクラスメートの反感を買ってしまう。
いじめられた経験のあるわたしは、それが何よりも恐ろしかった。
だから、わざと間違った答えを記入し、90点程度にとどめておいた。
この不思議な能力は、これからも続くのであろう・・・・と思っていたのだが。


高校1年の最初のテストで、能力がすべてなくなってしまったのである。


テスト用紙に書いてあることが、何のことだかサッパリ分からないのだ。
教師が授業で話したのかも、自分自身がノートに書いたことも覚えていない。
ただ、中学3年までの知識は残っているので、それを頼りに、
暑くもないのに、大汗をかいてテストを受けたのだ。

結果は惨敗。今でも覚えている。
英語は10点、数学は5点、そのほかは平均25点。
正直な話、教師が試験範囲を間違ったのだろうと確信していたのだが、
クラスメートが90点なり、80点なりを取っているところを見ると、
明らかにわたしの能力が落ちているということを認めるしかなかった。

それからは地獄である。
何しろ、16年間「勉強」をしたことがなかったのだから。
理系に進み、獣医師を将来の夢としていたが、
数学は最高でも10点、物理に至っては5点も取れない。
何が分からないのか、それすらも分からない。

夢閉ざされたとき、獣医師以外の道を考えれば良かったのだが、
当時のわたしが選んだのは、獣医の看護師になれるという専門学校への進学だった。
これが波乱万丈の人生の始まりだったのだ。


その専門学校は、入学から半年後、閉校になっている。