「じゃあ、結婚しようか」
冷えたコーヒーをまずそうに飲み干した後、
おおよそ大切だと思われることを、
あたかも「飲みに行こうか」と誘いかけるような、
そんな日常にあふれたリズムで、非日常なリズムを奏でる。
「わたしたち」が、たとえば1年なり、2年なり、
・・・・いや、この際、期間は重要ではない。
ともかく恋人としてくちびるを重ね、体のぬくもりを感じ、そして愛を語り合う。
そんな時間をすごしていたとしよう。
さすれば、「彼」の言葉に「わたし」は歓喜したにちがいない。
ところが、「わたしたち」の出会いは、「彼」がこの言葉を発するおよそ1時間前。
西の空から吹く、なまあたたかく、湿り気を帯びた風が、
やがては気持ちを鬱々とさせるような雨をもたらしたとき、
いつもは真っすぐ会社に戻るところを、なんとはなしに寄ったありふれたカフェで、
なんとはなしに隣になった「彼」がいて、どちらともなく声をかけたことからはじまるのだ。
大衆ウケだけを狙った安い音楽が、今日はやけに耳に響く。
大人たちに洗脳という名の教育を受け、感情をそぎ落とされ、
まるで人形のような表情を浮かべ、うたうアイドル。
愛が何たるかも分かっていない子どもが「男女の愛」をテーマにしたうたを歌う。
しかも、この日、このときに。なんたる滑稽なスト―リーだろうか。
それでも、「わたし」は笑うではなく、明らかに困惑していた。
目の前の「彼」が何を考え、10歳も年下の「わたし」にそれを言ったのか。
「飲まないの? それ」
「わたし」を混乱に陥らせた「彼」の次の言葉は、あまりに日常すぎて、
つい先ほど聞いたあの言葉が、実は幻聴だったのではないかと思わせる。
「・・・ああ。うん。もう、いいかな」
氷が溶け、うすくなったコーヒーに用はない。
それよりもむしろ、この場をどう切り抜ければいいのか、そればかりを考えていた。
「じゃあ、もらうよ。こんな日にホットなんて頼むんじゃなかったよ」
ははと笑いながら、うすくなったコーヒーを飲む。
つられて「わたし」も、「はは」と笑う。
感情のないそれは、愛のうたを歌わされている彼女と同じだ。
そんな自分にゾッとしながらも、この場を抜けることができるのなら、
感情を売り渡したっていい、そんな馬鹿げたことを考えていた。
「オレ、本気なんだけど。伝わってない?」
急に真顔になり、まっすぐな目で見つめてくる。
この状況で、どうしたら「彼」の言うことを信じることができるのか。
多少いらだちながらも、一方で「私」は自分自身のことが分からないでいた。
目の前にいる「彼」の誘いが嫌ならば、すぐに断ればいい。
「結婚できません」それで終わりだ。しかし、それができない。
この気持ちに何と名をつければいいのだろうか。
突拍子もないことを言う「彼」に対する興味。
この「彼」と一緒にいたら何が起きるのだろうかという期待、そして不安。
それらの感情が混じり合った気持ち。これを何と呼ぶのだろうか。
「実は2カ月後にニューヨークに行くんだ。一緒についてきてほしい」
「彼」の言葉は、さらなる混乱を呼び、思考を停止させる。
遠方にかすんで見える高層ビルに直撃した光は、
身震いするほど美しく、心惑わせる怪しさをひめていた。