2011/06/07

あの日、あのとき

「じゃあ、結婚しようか」

冷えたコーヒーをまずそうに飲み干した後、
おおよそ大切だと思われることを、
あたかも「飲みに行こうか」と誘いかけるような、
そんな日常にあふれたリズムで、非日常なリズムを奏でる。

「わたしたち」が、たとえば1年なり、2年なり、
・・・・いや、この際、期間は重要ではない。
ともかく恋人としてくちびるを重ね、体のぬくもりを感じ、そして愛を語り合う。
そんな時間をすごしていたとしよう。
さすれば、「彼」の言葉に「わたし」は歓喜したにちがいない。

ところが、「わたしたち」の出会いは、「彼」がこの言葉を発するおよそ1時間前。
西の空から吹く、なまあたたかく、湿り気を帯びた風が、
やがては気持ちを鬱々とさせるような雨をもたらしたとき、
いつもは真っすぐ会社に戻るところを、なんとはなしに寄ったありふれたカフェで、
なんとはなしに隣になった「彼」がいて、どちらともなく声をかけたことからはじまるのだ。

大衆ウケだけを狙った安い音楽が、今日はやけに耳に響く。
大人たちに洗脳という名の教育を受け、感情をそぎ落とされ、
まるで人形のような表情を浮かべ、うたうアイドル。
愛が何たるかも分かっていない子どもが「男女の愛」をテーマにしたうたを歌う。
しかも、この日、このときに。なんたる滑稽なスト―リーだろうか。

それでも、「わたし」は笑うではなく、明らかに困惑していた。
目の前の「彼」が何を考え、10歳も年下の「わたし」にそれを言ったのか。

「飲まないの? それ」
「わたし」を混乱に陥らせた「彼」の次の言葉は、あまりに日常すぎて、
つい先ほど聞いたあの言葉が、実は幻聴だったのではないかと思わせる。
「・・・ああ。うん。もう、いいかな」
氷が溶け、うすくなったコーヒーに用はない。
それよりもむしろ、この場をどう切り抜ければいいのか、そればかりを考えていた。

「じゃあ、もらうよ。こんな日にホットなんて頼むんじゃなかったよ」
ははと笑いながら、うすくなったコーヒーを飲む。
つられて「わたし」も、「はは」と笑う。
感情のないそれは、愛のうたを歌わされている彼女と同じだ。
そんな自分にゾッとしながらも、この場を抜けることができるのなら、
感情を売り渡したっていい、そんな馬鹿げたことを考えていた。

「オレ、本気なんだけど。伝わってない?」
急に真顔になり、まっすぐな目で見つめてくる。
この状況で、どうしたら「彼」の言うことを信じることができるのか。
多少いらだちながらも、一方で「私」は自分自身のことが分からないでいた。
目の前にいる「彼」の誘いが嫌ならば、すぐに断ればいい。
「結婚できません」それで終わりだ。しかし、それができない。

この気持ちに何と名をつければいいのだろうか。
突拍子もないことを言う「彼」に対する興味。
この「彼」と一緒にいたら何が起きるのだろうかという期待、そして不安。
それらの感情が混じり合った気持ち。これを何と呼ぶのだろうか。

「実は2カ月後にニューヨークに行くんだ。一緒についてきてほしい」
「彼」の言葉は、さらなる混乱を呼び、思考を停止させる。
遠方にかすんで見える高層ビルに直撃した光は、
身震いするほど美しく、心惑わせる怪しさをひめていた。